見立てのコミュニケーション

 日本文化には見立てという独特の文化が根付いている。見立てとは、ある物の様子からそれとは別のものの様子を見て取ることである。
例えば、落語での扇子や手拭いがさまざまなものを表す道具として使用されたり、茶の湯で船に乗るための入り口をにじり口としたり、水筒としての瓢箪や篭などを花いれとする。
  また、枯山水の日本庭園では玉砂利を波や大海としたり、石を島や蓬莱山としたりする。借景は日本の庭園や建築の定番である。その他にも盆栽や水石の世界、相撲見立て、なぞかけ、りんごをうさぎのように切ったり人参で桜を模るような日本料理や和菓子の世界、各地にある○×銀座、○×富士、○×八景など枚挙にいとまがない。

 見立てには日本独特のコミュニケーション形式がある。見立ては比喩やコピーではなく、それ自体が創造行為である。そして、見えているものと背後に透けて見えているものを見なければ成立しないという特徴がある。ここに私は大いに注目する。
 すなわち、そもそも見立てとは鑑賞者にインタラクティブなコミュニケーションを要求するものであり、日本文化にはインタラクティブなコミュニケーションの伝統が脈々と流れていたことを証明するものである。

 また、アキバに代表されるオタク文化も現代特有の文化のようでいて、日本文化に深く根ざしている。マンガは日本画の線と色の扱いを基本としているし、有名な鳥獣戯画や浮世絵などと結びついていることはよく知られている事実である。
 フィギュアはオタク文化の中から急浮上してきた文化であり、素体は自作フィギュアの主要パーツとして近年生まれた。日本文化と現時代とのシンクロニシティの中で、私はソタイを特別なモノとして見出した。

 美術の道具にデッサンのための人体ポーズの見本として利用するトルソーがあるが、素体が世の中に製品として出回るようになると、より複雑でリアルなポーズを実現するものとして素体が良質なトルソーとして利用されるようになった。素体自体が芸術家にインスピレーションを与えている事実も見逃せないと感じた。

 私は素体を本来の素体としてではなく、見立てのコミュニケーションの基礎となるマテリアルして捉え直した。ボークスやオビツなどから商品として製造された素体をいったん分解し、豊かな見立ての道具としてソタイというマテリアルに還元してみたのである。そして、それらの特性を生かしつ様々なバリエーションで展開するアートとして再構築を試みることで素体アートに挑戦した。
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