情報の選択

情報とは一般的に思われているような事実に関する単純な伝達では決してない。
ほとんど正しい内容であっても、改ざんの虚偽を含むものであっても、情報というものは常に意図的な目的に沿って構成されたものなのである。
会話であろうと、文字や映像・ネットなどのによるメディアによる伝達であろうと、何らかの意味や効果のある伝達を意図した表現形式全体が情報なのである。

情報操作という言葉を悪意を持った改ざんという文脈と全く切り離して使用するとすれば、情報とは情報操作の成果物そのものにほかならないといえる。

情報とは基本的に真実に基づいているという認識がある。しかし、実際には発信された情報が複数の解釈された事実になるのであって、情報によって得られる事実と認識される事象はバーチャルなものであり、バーチャルの中でより身近に信頼されているものがリアルな事象として認識される。
歴史も人によって書かれて事実のひとつになるのであって、事実の正確な記録ではない。歴史を書く人間の意図に応じて歴史は作られ、改ざんされ、歴史認識も時代とともに変化していく。しかし、いつも本当の真実はほとんど闇の中である。

リアルは実際にあるもので、バーチャルは仮想で本当でないものと思われていることが多いが、バーチャルの本来の意味は実質的にリアルと同等に機能するものであって、バーチャルの訳語として仮想や想定などは的を得ていない。
バーチャルマネーとはマネーと同様に使用出来るクレジットカードを意味し、決して偽金ではない。また、バーチャルカンパニーは実店舗はなくてもインターネットで買い物や取引が出来る実体的に機能する会社である。

バーチャルとリアルは反対語では無く、むしろ本質的には同義に近いものである。この世のすべての認識と存在は本質的にバーチャルであり、その中でも自分が存在する空間と時間の中で現前としてアプリオリに存在しているかのように認識されている事象がリアルという枠組みで認識されるのである。つまりリアルはバーチャルの一部分なのであり、バーチャルな世界の構造自体に変化はないが、時代の変化とともにそのコアな部分であるリアルな世界は姿を変えていく。

マネーは拝金主義の世の中では最もリアルな対象かもしれないが、すでに述べたようにクレジットカードはバーチャルマネーであり、またマネーそのものも自然発生物ではなく人間によって人工的に作り出された価値交換のための手段の発明品である。本来マネー自身が人間が発明した人工物なのであり、それが実質的な機能をもつバーチャルな性質を獲得して初めてリアルなものと認識されるのである。

個々人が行う情報の選択とはバーチャルな対象を選択する行為であり、その積み重ねが自身のバーチャル世界を構成することになり、それ中で日常化したものがリアルな世界として認識される。
現在でいえば、TwitterやFaceBook、LINEといったスマホを中心にしてひろがったSNSの世界はバーチャルな世界は若者にとっては人生の多くを占める完全なリアルな世界だが、これらがほんの数年前には存在さえしなかったとは信じられないほどになっている。

たとえ仮にこの世がウソで固められた捏造が横行する世界であったとしても、それがそのまま個々人にとってのバーチャルな現実世界=リアルなのであり、私たちはその世界に生きている。
情報の選択は自己の世界を構成する重大要素であるが、マスに与えられる情報に批判もなく受け入れるばかりであるのであれば、それは選択という主体的行為にはあたらず、情報操作によって洗脳されている状態と変わりがないといえよう。

どの国にどの時代にどのような環境で生まれて育てられたというような無自覚状態で一方的に与えられた世界に関する情報は、変更することが出来ない宿命としての情報ではあるが、世界を情報として主体的に選択する行為は運命として選択ができる自分自身の人生である。

情報の選択とは自己を形成し、生きることに直結する主体的行動である。
私は大学進学時に京都大学で物理学を学ぶことを選択したが、それは世界をよりよく認識したいという気持ちによる選択だったと思う。物理学は厳格な世界の数学的認識というよりも、世界認識のための人間の創造的行為であると思っていたので、工学的なアプローチよりも物理学の人間的な創造性により魅力を感じたのである。
私の世界の本質や真実を知りたいという強い欲望は生来のものだろうか。その後にサイエンスではなく芸術の道を選択したのは、世界認識に関してサイエンスよりも芸術的創造行為の方がより本質的だと感じたからだ。

同じ真実であっても、情報という構成された伝達によって、内容の異なるさまざまな事実が生じうることになってしまう。世界で起きた地域紛争を報道する内容は、国やメディアによって180度全く異なる意味の事実として日々実際に伝えられている。
操作されない情報は無いとすれば、何をもって世界を認識をすればよいのか?
無邪気に受け入れるだけで良い確実で安全な情報などこの世にはほとんど存在しないのである。
そうであるならば、最終的には自らの直感を駆使することで少しでも真実にアプローチするしかないないだろう。外部から与えられる情報の中から自分が選択する行為は、その時空での自分自身を主体的につかみ取り、自分自身を形成する行為だといえる。