情報リテラシーについて

ITが発展して社会に浸透していく時期に、情報リテラシーという言葉が生まれた。情報(information)と識字(literacy)を組み合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力として、メディアリテラシーやコンピュターリテラシーなどとともに情報時代を生きるために必要なものとされた。

情報はすべて意図的な目的の為に構築されるという性質があり、無批判に情報を信じ込むことは危険であり、情報を発信する側の意図を読み取ることで、情報を正しく読み解く能力が重要だとされた。教育現場でも読み書きの能力同様に適切な情報リテラシー教育が必要だとされ、1990年代にはこうしたリテラシー教育の導入の為の議論が盛んであった。

しかし、昨今の状況はいかがであろう。リテラシー教育導入の動きは影をひそめてしまい沈黙を決め込んでいるようである。
ネットの時代が進化し、スマホの浸透とtwitterやFaceBook、LINEなどのソーシャルメディアの爆発的な発展によって、情報社会の様相が以前とがらりと変わってしまった。

かつて叫ばれたメディアリテラシーといえばテレビというメディアが主な対象であった。テレビを通して与えられる情報に対する警戒であり、自らが情報を構築し発信するような経験によって、情報が持つ意味を批判的に読み解く必要性が強調されたものである。
ソーシャルメディアが盛んな現在では若者のテレビ離れが確実に進み、スマホを中心としたネットメディアが情報源の主流となり、情報の発信者もマスメディアだけでなく個々人のパーソナルな情報発信者の重要性な位置を占めるようになった。

そうした時代の大きな変化によって、ソーシャルメディアから発信されるパーソナルな情報とマスメディアの情報との間に乖離が顕著に見られるようになった。
ネットの世界で発信されたさまざまな情報がマスメディアでは無視されていたり、違う意味に解釈されていることに多くの人が体験的に気がつき始めたのである。
ネットの情報はガセネタや思い込み、口コミ、風評などが多く信頼出来るものばかりではないが、それを承知した上でもマスメディアへの信頼度は低下し続け、パーソナルメディアへの依存度は高くなるばかりであった。

かつてのメディアの王者のテレビは劣化が速している。マスメディアへの信頼度や依存度の低下によってテレビ離れが加速され、それによってテレビ番組の質の劣化が進みさらに聴者離れを生むという悪循環を繰り返すばかりである。
テレビというメディアは昨今完全に信頼を失い、大本営発表と同じとまで揶揄されている。ネットの世界ではメジャーなテレビキー局が、「犬◯K」や「ウジ◯◯ビ」などと蔑称されることさえ日常的な出来事になってしまった。

ネットの世界ではテレビを含めたマスコミのことが、捏造した情報を垂れ流すマスゴミだとさげすまれるような日常の中で、マスコミの情報操作には厳しい疑いが向けられるのと同時に、メジャーな場において情報リテラシーの必要性が語られることが極めて少なくなり、その事実を傍証する結果となっている。
ネットの世界の情報も玉石混交であり、マスコミもネットの世界も両方に対して情報リテラシーはますます重要になってきているはずであるが、それがあまり話題にならないのは裏事情があるからであり問題視されるべきである。

江戸時代末期に「えいじゃないか」という運動が民衆の間ににわかに起こった。幕末の時代の変革期にあって、伊勢のお札が降ったことを契機に民衆が狂乱して「えいじゃないか」叫びながら踊るという運動が全国各地で起きたといわれる。
「えいじゃないか」は時代の変革期での民衆の不満が爆発した表現であるという側面があるが、現在の信頼を失ったマスコミやブラック企業が横行して大多数の国民の貧困化が急速に進むような社会の劣化に対して、民衆が諦めの感情を通り越してどこにぶつけてよいか分からない不満が爆発寸前であり、あたかも現代版の「えいじゃないか」がいつ起きても不思議ではない気配が漂っている。

情報リテラシーとは個々人が情報社会に対して具体的に向き合う様態となりうるものであり、生体を構成するひとつひとつの細胞の重要性や、生命の根源と目されるソマチッドにも似てはいないか?
個単体の力は小さいかもしれないが、それが集まり総体として機能した時大きな意味を生む可能性は十分にある。情報リテラシーを契機に大きな社会の変革が起きようとしているかもしれない。実は現況とは裏腹に現代において情報リテラシーはかつてない重要な意味を持つようになってきているのである。