アートコンセプト

インタラクティブアート

市川衛が制作してきた数多くのインタラクティブアート作品やインスタレーション、パフォーマンスなどはすべて、自身が考える独自のインタラクティブアートの理論に基づいている。

インタラクティブアートとは人間に対して何らかの物理的あるいは情報的な働きかけや反応があるコミュニケーションやテクノロジーを含むアートだと通常説明されているが、私はそれは狭義のインタラクティブアートの概念だと考える。

私が1980年代から構想を始めたインタラクティブアートでは、物理的な作用や機構の存在や、目に見える形のシステマチックな情報コミュニケーションは必ずしも必要とされない。それらは有力な手段とはなりえるがインタラクティブアートの必要条件であるとは考えていない。

インタラクティブなコミュニケーションで最も重要な点は、コミュニケーションの主体が人間であるということである。鑑賞者やユーザーが対話的なコミュニケーションの場を通して、主体的な行動や創造を行うことが志向されていることがインタラクティブアートの最も必要な要件である。
センシング技術やキネティックな機構、コンピュータやネットを介した情報コミュニケーションなどはインタラクティブなコミュニケーションの手段にはなるが、それらはあくまでもサイバネティックな構造であり、そのものはサイバネティックアートになりえてもインタラクティブアートの目的にはなりえないのである。

インタラクティブアートを人間の行動や創造を喚起する場ととらえると、作品の本質とは鑑賞者の中に生み出されうる形のない体験そのものでり、形ある作品とはそのための道具立てとしての手段としてデザインされたアートメディアであると考えることができる。

最近の情報デザインでは、UI(User Interface)に加えてUX(User Experience)という概念が明確になってきた。ユーザーインターフイスは広い意味で人の世界と物の世界の接点・コミュニケーション空間であり、ユーザーエクスペリエンスユーザが特定のサービスを使ったときに得られる経験や満足など全体を指す用語である。
情報デザインが目的とするのはユーザーが主役となるUXであり、そのための手段としてUIがあると考えてよい。単独では優れていると感じられるUIであってもユーザー体験が貧弱なものであるならば、目的をはき違えたデザインであるといわざるをえない。
優れたUIは豊かなUXを生みうる手段となる。UIは単なる機能の集合だけではなく視覚や触覚なども含むトータルな情報全体であり、単独の制作物ではなくあくまでもユーザーに向けてデザインされる全体の一部である。UXはユーザーの経験として生み出されるのであり、造形物のように形あるものとして製作されうるものではない。

インタラティブアートの概念はコンピュータやネットワークなどの高度な情報コミュニケーションテクノロジーの発展とともに明確になってきたが、人間の経験をデザインするという観点では最近のテクノロジーによってのみ生まれたものではなく、そのようなテクノロジーが全くない古い時代から実は潜在的に存在した表現方法であった。特に日本文化はインタラクティブ文化といってよいほど、対話を通じて体験をデザインする 表現の宝庫である。

「茶の湯」はもっともわかりやすい例である。茶の湯は日本を代表する文化や芸術だと誰もが認めるものであるが、その目的とするものは目にも見えず形も定まらない「もてなし」である。
茶の作法、茶室、茶碗、茶花などさまざまな手だてはもてなしのための手段であっても決して目的そのものではない。伝統となり一定のルールは存在するだろうが、あくまでもその本質はその時々の状況に応じて主人が客人に向けてのもてなしであり、客人に生まれうる体験こそが目的となる。
もてなしによって誘われる体験の実現のために一定の表現形式を与えたものが茶の湯という芸術だといえるだろう。

日本庭園などにも対話文化は豊富に存在する。日本の庭園にはしばしは飛び石があるが、これがあると人は無意識のうちに歩く方向や視線が誘導される。飛び石は人間の歩幅に合わせて敷かれ、全く動くこともないが、巧妙に敷かれた飛び石は精巧にプログラミングされたゲームのように人を誘い、心地よい歩幅で歩く行動をナビゲーションするのである。
飛び石が二手に分かれれば人はどちらの方向に歩いていくかの選択を語りかけられ、飛び石が終わって視線が下から解放されて前方に移る瞬間に視界が開けたり素晴らしい景観が飛び込んでくれば、徐々にその風景を見たときよりもずっと印象的で感動的な出会いが可能となる。
飛び石を例に挙げたが、日本庭園の設計思想には明らかにそれを楽しむ人間に向けての体験のデザインがある。同じ情報でも出会い方、出会う順序、身体の状態などによって経験の質は大きく変わるのである。

茶の湯や日本庭園に限らず、日本文化には目に見えないものを見ようとし、形のないものに情緒を感じて愛でようとする志向が非常に強い。四季の変化がはっきりした自然の中で、無意識のうちに自然や神とともに共生する文化が色濃くあり、見立ての文化を楽しみ、もののあわれを感じる日本人の感性を豊かにしてきた。
白黒はっきりつけるのは野暮であり、言葉にしなくても情報を的確にくみとり、周囲の人や状況を常に自分との関係性から感じ取り、状況に応じて行動を使い分けるなど、日本人特有のコミュニケーションの特色は人や事物との豊かな対話の世界から生まれている。

日本文化の特徴や日本人的コミュニケーションの特性はそのままインタラクティブアートの特性と重なる。インタラクティブアートという概念は情報コミュニケーションの高度な発達とともに明確になったのではあるが、実は日本文化の伝統の再発見でもあったのだ。
日本人特有の美意識の中には形のないものの中にこそ実体を見いだし観じようとする意志が明確に感じられる。私自身のインタラクティブアートの概念は、そうした美意識と強く結びついているのである。
日本特有の感性や美意識は日本人だけのものではなく、次第に世界中で認知されるようになってきており、グローバルな広がりが出てきている。外国文化においても、そのような日本人的な美意識や価値観と共鳴するもののがメジャーではないが過去にも数多く見いだすことができ、次第に日本人の美意識への理解も広がっていくと期待される。

ネットやデジタルが主流となった時代だからこそ人間中心の豊かなコミュニケーションの形式が必要とされ、それが新たな美意識へと成長しているのだと私は考える。その流れを誰よりも早く明確に感じ取り、インタクティブアートの正しい理論を構築し、作品という実践でさまざまな試みを先駆的に行ってきたという自負は多いにあるが、まだまだその真意が正確に伝わっていないのが現状である。

手段や仕組みはインタラクティブなコミュニケーションのために意図をもって周到にデザインされるが、それ自体が完成品や最終目的ではなく、あくまでも真の作品を生み出すための手段やメディアに位置づけられる。鑑賞者の体験のためのモノを作るのではなくコトを生み出す場をあつらえることで、鑑賞者の中に主体的な行動や創造行為という形のないが実体がある体験という作品を生み出すことことが私のインタラクティブアートの主眼である。

<付記>

1980年代から構想したインタラクティブアートの概念は1994年に電子出版の自費出版の「インタラクティブアート宣言」という芸術宣言文で最初に明確にした。
同年に東京の科学技術館で開催された『インタラクティブアート展』では宣言文の展示も行った。

「インタラクティブアート宣言(1994)」の詳細はこちらへ。